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中世の学生のノート/暮らし/スコラ学

ストラスブールから南へ2マイル、セレスタという町がある。

 

その町には小さな図書館があって、手書きの文字が記された大きなノートが2冊飾られている。

一方が300ページ、もう一方が480ページ。

 

1477年から1501年にかけて、セレスタのラテン語学校に通っていた2人の学生のノートだ。

ひとりは、ギラウム・ギゼンハイム。

このノート以外に生涯については全く知られていない。

もうひとりは、ベラトゥス・レナヌス。

人文主義運動の担い手の一人で、のちにエラスムスの著作を編纂する人物だ。

 

中世末期の大学の学生というのは、どのような暮らしをしていたのだろう。

かれらは、旅行の安全、牢に入れられない保証、社会的義務の免除といった特権を与えられていた。

しかし、一方で学校に通うための課税、週単位の寄宿舎料を払う必要があり、

これを払えない学生は、「援助される手段を持っていない」と宣誓した上で、

なんらかの助成金にもとづく奨学金が支給される場合もあった。

 

貧窮にあえぐ学生は、15世紀、パリで18%、ウィーンで25%、ライプツィヒで19%いたという。

「特権」はありつつも、経済的に困窮した多くの学生が国内をうろつき、

施しや窃盗で辛うじて生き延びたり、なかには占い師や魔法使いとして生計を立てる者もあった。

 

中世末期の大学のカリキュラムは「スコラ学」と呼ばれるものだった。

もともとは、12世紀から13世紀に、

「思索とは綿密に策定された法則によって作り上げられていく」という考えにもとづき、

《信仰から生まれる宗教的な教え》と、

《人間の理性から生まれる多様な議論》を、調和させる手法として発展した。

 

「多様な意見の中に見られる調和」こそが、議論の目標だった。

 

これはけっこう驚くべき手法で、宗教的なものと知性的なものを調和させ、なおかつ一つの結論ではなく多様なものの調和を目指す手法だったといえる。

 

しかし、「スコラ学」は、「いろいろな考えを引き出す」手法ではなく、むしろ考えをアーカイブし保管する手法へと変貌していった。

「調和」でたどりついた議論が、「すべての反論を制した見解」として「正統な見解」として権威をもたされた。

その結果、スコラ学は、正統な見解を記した「注釈書」の暗記学問になりさがってしまった。

セレスタの2人の学生が勉強したのは、そういった時代から次の時代への変わり目だった。

 

(A. マングェル『読書の歴史 あるいは読者の歴史』より)