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ニーチェの物語(はじめに)

「来たるべきもの 一つの予言

A 道徳の自己克服。

B 解放。

C 中間および没落の初め。

D 真昼の目印。

E 自発的な死。」

「永遠回帰 一つの予言

第一部 「いまや時なり!」

第二部 大いなる真昼。

第三部 約束する者たち。」

「力への意志 すべての価値の価値転換の試み

第一章 真の世界と見せかけの世界

第二章 (略)生を誤解しようとする意欲は何を意味するのか?

第三章 デカダンスの表現としての道徳

 利他主義、同情、キリスト教の批判

(略)

第五章 現代の批判、現代はどこに属しているのか?

第六章 力への意志、生としての。

第七章 私たち極北の民」

 ニーチェの生涯最後の書物『力への意志』は、彼のいわゆる「発狂」によって彼自身によってまとめあげられることなく、膨大な草稿を妹によって編集されたものだ。しかし、彼がこの書物の構想・計画を1880年代初めから書き続けていたことは、わかっている。上記はその抜粋だ。

 ニーチェの計画メモを眺めているだけで、彼の企図がなにがしか伝わってくるのを感じる。

おそらく、ニーチェが存在感を放ってきたのは、まだ明かされていない、真の時代的使命があるからだ。彼はこの本のなかで、執拗に「道徳」を攻撃している。

ここで、近代における「徳」とは、当初近代科学の(正確には近代科学者集団の)徳に起源があった、というハンナ・アーレントの指摘を思い出しておきたい。その徳とは、「成功(success)」「勤勉(industry)」「正直(truthfulness)」であった。近代科学の専門家集団に生じたこの3つの徳が、その後社会全体の徳目となり、さらには家庭の中にまではびこったことが、どれほど人間にとって破壊的であったかは、交流分析の知見をよく検討しなければならない。ともかく、これらの徳は、間違いなく、家庭を破壊し、「毒親」と呼ばれる現象を生み出し、多くの子どもたちを破壊してきた。

 ニーチェの攻撃する「道徳」は、こうした巨大な問題群と接続しているのだ(それはまだ仮説の段階なのだが)。そうだとすれば、彼の「肉体主義」「本能主義」「自然主義」は、決して(原佑が訳したような)「権力への意志」ではなく、むしろ「生きたいという意志」というべき、もっと次元の低い(あるいは高い)欲求ではないだろうか。「全ての価値の価値転換の試み」という副題をもつ『力への意志』、その中心は、生命をもっとも低次元に置くような考え方の転換、生きたいという意志を高次元から解釈するという可能性に置かれているのではないだろうか。

 彼の著作『力への意志』は、「生きたいという意志」を表している。これはまだ私にとって仮説だが、この仮説を、さらに全く別の分野の概念で言い換える試みが許されるなら、こう言えると考える。それは、ニーチェの全主張は、「インナーチャイルドに息を与え、その声を聴き、重視すること」に関わると。ニーチェの渇き、怒り、子どものような情熱、純粋さ、もちろん書物としての『力への意志』やその他の著作群の内容、そして何よりその内容と文体・筆致(すなわち「描線」)の一致が、彼の著作群のテーマと彼自身の人生がインナーチャイルドの声をめぐるものだったということを示唆する。

このことを、これから辿ってみたい。