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トビトの物語

29 Aug 2020
ジャック・デリダ『盲者の記憶』を読んでいる。

 失明した父(トビト)の目を癒す息子(トビヤ)の話(旧約聖書の外典である「トビト書」の話)が題材である。トビトという人は、王様によって禁じられた「葬い」をしたことで、神による「罰」をうけて失明したと考えていた。その失明を、息子が癒した。

 まず重要なのは、この物語が、アブラハムやイサク、連鎖する「えらべないはずのどちらかの息子を犠牲にする」という「暴力の波紋」(200712)の物語への反-物語となっていることだ。かれらは、父によって犠牲にされる(ところすんでのところで助かった)かつての息子であり、そして自分が父になって同じことをくり返す。彼らの特徴は、まさしく息子を見ていないことだ(イサクは目が見えていない)。だが、トビトは、目が見えるようになる、息子によって。これだけでも象徴的だが、もっと象徴的なことを、彼がみずから述べている。

「目が痒くなったので、彼は目を擦った。すると、しみは目の端から剥がれ落ちた。(トビトは)息子を見ると、彼の首に抱きつき、泣きながら言った。『神の御名は永遠にほむべきかな。(…)私は、こうして私の息子トビヤを見ることができるのだから!』」(「トビト書、11章12-13)

 トビトが涙をながしたのは、見えるようになったからではなく、息子が治してくれたからだけでなく、「息子が見えるようになった」(これはトビト自身の言葉である)からである。
 デリダはもう一歩踏み込んでこう書いている。

「彼が感謝のあまり泣き出すのは、ついに目が見えるようになったからというよりは、彼の息子(トビヤ)が、じぶん(トビヤ)を見えるようにすることによって、トビトに視力を回復し、視力を取り戻してくれたからなのだ。」(ジャック・デリダ『盲者の記憶』p.35)

 だから、この物語の決定的なポイントは、息子を見ることこそが、見ることにほかならないという気づきの大きさなのだ。それこそが、旧約の他の物語で、かつての息子だった父たちができなかったことであり、それはささやかだが巨大な意味のあることなのである。

 だから、天使ラファエルはこの物語を「書き記しなさい」と言ったのか?それは、ありえることだ。
 魚の油のせいで治ったのではなく、息子が自分を見えるように父を導き、父がその意味を悟ったことで「見える」ようになったとしたら?(その根拠に、父の葬いへの考えも関係するかもしれない)

父、「見えなかった」父こそは、「見る」ことの真意を悟ったというべきだ。(イエスが「ファリサイ人」に対して、見えているあなた方は実は見えてない、と言ったこともおもいだされる)

 レンブラントはこの場面の素描を残している。レンブラントのラファエル、表情が明確ではないのに、気遣っている(care)ことが伝わるのがすごい。そして彼は見ている。全体を見ているが、あえていえばトビヤを見ているようだ。ラファエルが、皆と同じく、足が地についていることも重要だ。

(レンブラント(作とされる)、父の視力を回復するトビヤ)
(レンブラント(作とされる)、父の視力を回復するトビヤ)
(レンブラントの模写?ラファエルが宙に浮かんでしまった。)
(レンブラントの模写?ラファエルが宙に浮かんでしまった。)