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210221 愛される人間が、愛する人間の目に映る時には

  • 愛される人間が、愛する人間の目に映る時には神となる

しかしこれだけでもない。トルバドゥールや『トリスタン』物語の作者たちが考えていたような愛は、動物的本能がそうであるように単に肉体だけを対象にしたものでもなければ、当然、知性だけを対象にしたものでもない。それは、魂そして霊を対象にしたものでもあり、そうすることで、その愛に神性を付与するものなのである。

 というのも、人が愛の対象の中に求めているのは、その人を高めてくれる何かであり、情熱を正当化する何か、でもあるからだ。愛とはトルバドゥールが繰り返し述べているように、愛する人間と、その愛の対象となっている人間を高めるものである他者のうちに最良のもの、即ち神聖な要素を創造することを望むことは、その他者を通して神を求める気持ちに他ならない*1

 12世紀アンダルシアの偉大なスーフィー、イブン・アルアラビーは、宮廷風恋愛を推し進め、大胆にも次のような極端な意見を述べている。


愛される人間が、愛する人間の目に映る時には神となる*2というのも、ある人のうちに神性が宿っていると認めずしてその人を愛することは不可能だからである即ち愛とは次のようなことである被造物はその創造主以外の何ものをも愛することはない』(コルバン, p.111)


 この言葉は、次の、キリスト教で大切な教えを思い起こさせる───「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(「マタイによる福音書」19:19, 22:39)。神を愛するとは、隣人を通して神を愛することなのである。しかし、諺にもあるとおり、「愛するには二人を必要とする」のである。だとすれば、自分を愛するとは、自分のうちの最良のもの、自分のうちで神性を反映している部分、神によって召されると考えられている部分を愛すること以外の一体何でありえようか。したがって、自分を愛するように隣人を愛するとは、他者の内部の最良の部分、即ち【その人の天使的部分を愛する】ということなのである。」

(ドニ・ド・ルージュモン「愛」『西洋思想大事典』(Dictionary of the History of Ideas) p.9)


*1 ただし著者は、キリスト教の神を基礎に書いており、その神は人格神だと明言している。


*2 「愛される人間が、愛する人間の目に映る時には神となる」この12世紀のイスラム教神秘主義者の言葉は、「人間が神となる」という点において、折口信夫と通底する。無論意味は違う。イブン・アルアラビーのこの言葉は、通俗的には、「恋は盲目」(好きな時は、相手のいいところしか見えない)である。さらに、著者もそのようにみている通り、この愛には、幾分感情的な昂りが付与されている(あるいは、トルバドゥールがそのように過剰に見られてきたということもあるかもしれない)。しかし、それでも、彼の言葉は、愛されるということは、その人の最良のもの、神性に通ずるものを、しっかり見つめられる、認識されることである、という真髄を捉えている。一方で、折口の神人論は、無論、愛とは関係ない。それは、穢れを、「もつれた紐」をほどく営み、罪をほどくという営みに関わる。だが、「真の認識」と、「罪のほどかれ」は関係あることである。人は、罪をほどいたとき、真に認識することができる、と言うことはできないだろうか?少なくとも、トビトの物語ラッカの物語は、そのような物語であったはずだ。


  • 愛の情熱が生まれ、発達してきた状況

だから、の情熱というものが生まれ、自らを主張し、発達してきた状況というのは人がそれ(愛)を、人間の魂と神との関係を象徴し反映するものと考えられるようになった状況においてである。愛の情熱が西洋の諸宗教と同一の源によって育まれているのも事実したがって、愛の情熱が持てるすべての力を発揮していったのはヨーロッパにおいてのみであった。」(ibid. p.9)*3


 *3 著者は、神の問題を典型的なキリスト教ないしは一神教に帰しているので、当然多神論の見方からは別の視点が提出されるだろう。にもかかわらず、「愛が発達してきた状況とは、人が愛を、魂と神との関係を象徴し反映するものと考えられる【ようになった】状況である」という見方は、示唆的である。愛がもし、人間が培ってきた様々な能力の中でも、極めて特殊で潜在力のある力であり、どのような苦難も確信に変える力を持つものだとしたら、この愛を人間が発達させられたこと自体が奇跡的である。もしかしたら、神が、あるいは宇宙自身が、宇宙の進行を人間に任せる気になったきっかけに値した奇跡なのかもしれない。愛を人はいかにして学ぶのか?その一つの単純かつ最も重要な答えは、愛されることによってである。この答えは、今もって実践的には、最も必要であり、多くの人が知るべき答えである。だが、もう少し別の視野で(というべきか)、人はいかにして愛を得たのかを知ろうとするとき、「愛が魂と神との関係を象徴し反映する」という経験の海の海辺が見えてくるかもしれない。(古臭い教義やわざとらしい権威ではなく。)