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創世記メモ2(善と悪)

- 善と悪

 創世記第1章第4節は、「これが天地創造の由来である」という文から始まる。一見、それまでの(神の休息も含めた)天地創造の様子を締めくくる文のようだが、奇妙なことに、その後、再び前と同じような「天地創造」の内容の記述が繰り返される。関根によると、成立年代・事情の異なる他の資料の混入として説明されているが、「人」の造られ方の説明が以前と食い違っていることは、前回指摘したとおりである。

 ここで、わたしたちの検討にとって重要な、「善」と「悪」という言葉が初出する。

 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれ」、「東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」。この次である。

 

また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

 

 エデンの園と呼ばれる場所の中央に、二つの木を生やしたという。「命の木」と「善悪を知る木」である。後に「創世記」のなかで示唆されるように、「命の木」は、木の実を食べることで無限の生命、すなわち不死を得るとされている。一方、「善悪を知る木」の実を食べると、文字通り「善悪を知る」ことになることが示唆される。

 

 そして、非常に有名な、問題の次のシーンに移る。

 

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

 

 神はなぜエデンの園の中心に木を生やしたか?どれでも食べよといいながら、ひとつだけ禁止をしたのか?この神の言動にはどういう意味があるのか?これらは皆、根本の問題だが、ここで全てを追究しきることはできない。ここでは、第3章の「蛇」の言葉に注目しよう。

 

 蛇は、第3章冒頭、「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」と、創世記のテキストによって完全に性格が印象づけられている。よく知られているとおり、第2章の後半で「人のあばら骨」から生まれた「女」をいわばそそのかし、「善悪を知る木」の実を食べさせるのが蛇である。蛇は女にこのように言う。

 

あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。

 

 蛇は女にこう言い、女は「その木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」とある。

 

 ベンヤミンによると、「何が善で何が悪かという知識は名をもたない」ゆえに「それはもっとも深い意味で虚しいもの」であり、「この知識はそれ自体パラダイス状態のうちに存在する唯一の悪」とすら述べている(「言語一般について、また人間の言語について」)。何が善で何が悪かは、創造や(創造としての)認識を伴わない、きわめて外的な知識だというのだ。ベンヤミンの指摘は極めて示唆に富んでいる。前回取り上げた第1章(神の創造)における「神が見て、良しとされた」は、善悪の判断ではない。それはあえていえば、創造し、創造したものの存在の肯定である(休息の第七日を祝福したことがその証左である)。創造行為と名づけの行為、存在の肯定、これらが神の行為であり、善悪の判断はここに全く含まれていない

 

(※ベンヤミンがこの知識を「唯一の悪」とすら呼んだ理由の明確化・・・)

 

 ともかく、蛇が「神のように善悪を知る」と言っていることは、根拠がないか嘘であるかということになる。「善悪を知る」ことが、「目を開ける」ことと直接同じ意味になるとはいえない。実際に、木の実を食べた彼らに起こったことは「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」ということであった。彼らは、その後神の足音を聴いて、「恐れて」身を隠している。恐れるということは、「悪いことをした」という認識が発生したことになる。

 

 しかし、この箇所で、もう一つ見逃せないのは、ここで、人間が主語で「見る」という行為が初めて現れる。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」という箇所である。ここで女は、蛇に唆されたにせよ、自分で木を見て、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」と感じ、その判断で食べている。ここをどう評価するか?(また、この箇所より前に、アダム(人)が動物たちに名前を与えている。この箇所に、「見る」という言葉は現れないが、たぶん当然動物たちを見て、名づけているだろう。ベンヤミンが精密に論じたような名付けの行為は、「見る」こと抜きでは不可能である。)

 

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cf. 関根正雄の「罪」の解釈:

ベンヤミンと真っ向から対立するもの