ニーチェの物語3(「力」を求めるのか?それとも「壊れやすさ」の中にある「強さ」を見るのか?)


「力」を求めるのか?
それとも「壊れやすさ」の中にある「強さ」を見て取るのか?
前者は、見ず(たとえ見たととしても、否定するために見る)、求める。
後者は、すでにあるものを見る。その違いは大きい。
物語の中のような人だ、ニーチェは。その物語は、「極北の民」が主人公の物語だろう。

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「私たちが道徳を信ずるかぎり、私たちは(自分自身の)生存を断罪する。」
(ニーチェ『権力への意志 上』原祐訳, 断章6, p.24)

別所ではこう書いている。


「道徳は生存への意志からの背馳である。」(同, 11, p.27)

彼が、「意志」という言葉に生存という言葉を結びつけていることが注目される。彼のいう「力への意志」という概念が、「生存(つまりは生き延びること)への意志」をベースにしていることがわかる。
つまり、この本が念頭においている人物像は(あるいはありていに言えばニーチェという人は)、生存が危機にさらされていると感じざるをえない人、「このままでは生きていくことができない」と感じる人であることが、ここからわかる。「極北の人」とは、こうした人たちのことにほかならない。

ニーチェは続けて書いていく。


「私たちは疲れている」(同, 8, p.26)
「長期にわたる力の浪費の意識、徒労の苦しみ、不安定、なんらかの方法で気を晴らし、何ものかで安心する機会の欠如」、ここに「あまりにも長くおのれを欺いてきたかのごとき自己羞恥」がくっついてくる。

彼は、しかし、この「疲れ」を、「ありえないことへの信仰とそれを強制させてきた道徳」に返し、それらを否定することをエネルギー源にして、突き進めるところまで突き進もうとする。

彼はこのように考える。まず第一に「生成(=起こっていること)に目的はない」。第二に、「生成に(それがそのために起こった意味を与えるような)全体性はない」。第三に、いまこの現実で色々起こっている「生成の世界」の彼方に、「真の世界」などはない。
「つまり何が起こったのか?「目的」という概念をもってしても、「統一」という概念をもっていしても、「真理」という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、無価値性の感情がえられたのである。」(12A, p.29)
ここで、彼が「生存」という言葉をふたたび使っていることが気になる。「世界の総体的性格」ではないのである。彼にとっては、世界ではなく、生存が問題だ

「いかなる真理もない…事物のいかなる絶対的性質もなく、いかなる「物自体」もない」(13, p.31)、すべてが無価値、というか「価値にはいかなる実在性も対応しておらず、また対応しもしなかった」(同)。


このように考えたニーチェは、ここから、真の価値などないのだが、価値はつけられる力をもってすれば、と跳んだ

いそいで付言するならば、この力は、のちの時代にヒトラーがそう考えたような武力や暴力ではなく、少なくとも精神上の力によるものであった。
「むしろ、これらの諸価値は、価値設定者の側における力の一つの徴候、生の目的のための一つの単純化にすぎないということ、まさしくこのことのうちに事物の価値を置き入れる」従って「価値とその変化は(←価値は設定によって変化できる)、価値定立者の権力の増大に比例する。権力の増大の表現としての不信の、許容された「精神の自由」の度合い…精神の最高の力強さの、このうえなく豊饒な生の理想としての「ニヒリズム」」(14, p.32)。ここには、彼が用語としては否定したはず(16, p.33)の「理想」という言葉すら再登場してしまう。

ほんとうの価値なんてない。
だが価値は「変えられる」。価値はそれをつくる者がいて、その力によって価値が増減するのだ。その力のいちばん端的な力こそ「不信」のもつ力なのだ。

私は、ニーチェの全主張を「インナーチャイルドに息を与え、その声を聴き、重視すること」として読んでいこうと思っている。彼の「生存への意志」「生きたいという意志」を、インナーチャイルドの声としてニーチェ自身が聞き届けようとする営みとして、読もうとしている。
だが、わたしは、「不信のもつ力」こそが、最高の武器だというふうには思わない。インナーチャイルドの考えや思いを聴きながら、さあ、私たちは、一緒に別の知恵も練っていけるはずだ。21世紀の「極北の民」が生きる、新しい時代の幕は開いているのだから。