序-1 記録物のきらめき

  • ## エピグラフ

 

生まれては死んでゆく人間に与えられた時空のなかで思考活動によって踏みならされていった小さな見えないくらいの「非-時間の小道」…

 

――ハンナ・アーレント『精神の生活』(上)

 

 

  • ## 001 空に消える声 〈記録〉する娘

 1929(昭和4)年7月16日、18歳の夏の夜だった。父親の言葉を、高橋ゆうは、日記に留めてこう書いた。

 

「ものを積み重ねること、書いていくこと、研究して積んでいくこと――後戻りをさせないやうに。

 一つのことを深く研究すれば、それだけその人としての思想も深くなる。一つを専門的に研究することが最もよいことであること。ある程度までいけば興味が自づと湧いてくる。しかしそこまで行くのが困難なことなのであるといふこと。」

 

 もし読者のなかで「研究」という言葉が専門的すぎるように聞こえるなら、「探求」と読み替えてもいい。一つに専念することの大切さを娘に語って、一息、「お父さんは何も書いて置かなかつた」と娘の日記は続く。

 

「お父さんは何も書いて置かなかつた。又今になつて書かうと思つても、明治流の文章が出て来て自分でいやになつてしまふし、臆劫だ。ばからしいと思つても何でも書いてをくこと。さうすれば、それが溜つてそれだけ進歩して積んで行くことになる。書かなければ、誰かが自分の言葉を記憶してゐて書いてでもくれることのない限り、空に消えてしまふのだからな。」

 

 明治17年生まれの「お父さん」は、後悔の言葉を綴っていた。「何も書いて置かなかった」という後悔、ばからしいと思っても書いて、積んでいければそれが「進歩」になること。まるで、書かなかった自分の「言葉」は、取り返しもつかず「空に消えてしまった」とでもいうような。この夏の夜に、娘は父の言葉を継いで日記にこう書いた。

 

「空に消えてしまふ……、信じたくないほどさびしいことだ。若い時代を過ぎた、二度と来ない時代を過ぎたお父さんにとつてはもうとりかへしのつかないほどさびしいことではないだらうか。さう思つてお父さんを見たらほんたうに気の毒になつた。私がお父さんの言葉を記録して上げやう、と思つた。」

 

 

 こうして高橋清七という人物の肉声は、娘の記憶の中だけでなく、娘の日記に「記録」をされることで、文字の形で残されることとなった。しかし日記もまた、それを書いた個人だけが目にするものであるなら、娘の個人的記憶の延長のようなものでしかなかっただろう。この出来事から13年後、すべては変わり、尾崎秀実の秘書として働いていた娘は、ゾルゲ事件の容疑者として投獄をされることになる。父は亡くなり、その父の遺志を記念するかたちでいとこ同士で始まった『野褐』の誌上に、高橋ゆうは、「遺稿」「父の言葉」「書簡」という3つのテキストを寄せている。「遺稿」は、みずから「明治流の文章が出て来て」書くことができないという清七が遺した思考の断片、「書簡」は生前の父が娘に書き送った手紙、そして「父の言葉」こそは、ゆうが「お父さんの言葉を記録して上げよう」と思って文字にした彼女自身の日記を再録したものである。娘が記録した父の言葉は、まずは、いとこ会というきわめて限定的なつながりの中で、手書きの原稿用紙を和綴じで束ねた回覧雑誌という媒体で共有されることになった。

 

 『読書の歴史 あるいは読者の歴史』という本を著したアルベルト・マングェルは、「書かれたものは残り、話されたものは空中に消えていく」というホメロスの時代の言葉を引用している。この言葉は、清七の言葉とよく似ているが、実際には「朗唱される言葉は、動きのない死んだ言葉とちがって、翼を持ち空を飛ぶこともできる」ということを伝えようとした言葉だという*1。「お父さんは何も書いて置かなかつた」という父は、積み上げてこられなかったことの後悔を娘に話している。「誰かが自分の言葉を記憶してゐて書いてでもくれることのない限り、空に消えてしまふ」。だが父が娘に語ったことは、娘にとって「翼を持ち空を飛ぶこともできる」ような言葉たちだった(@その中身は後述する)。翼を持ち空を飛ぶこともできる言葉は、確かに空中に消えていくはかないものだからこそ、娘は自身の「記憶」にとどめ、それを日記という〈記録〉に変えたのだ。

*1 アルベルト・マングェル、2013年、p.60

 

 この日の日記は、父の次の言葉を記録して終わっている。

「やつぱり自分に自信がなかつたんだね。自分を尊重しなかつたんだね。だから専門的に進むことができなかつた。だから自分より頭がわるいと思つてゐた人にでも、業績から見たら負けてしまはなくてはならない、ばかにしてゐながらでも。今考へれば、自分といふものは決して馬鹿にすべきものではないね」」

 (彼が、自分が悔やんでいることの根本を表しているこの箇所は、確かに自分を尊重してあげられなかったという負の思い、「自分といふもの」を自分で馬鹿にしていたことに気づいた後悔、なのだが、この負こそが、すべての出発点でもあった。彼の負の思いこそ、なぜ言葉を紡ぐのか、言葉を記憶し、記録するのかの出発点であり、回覧雑誌『野褐』をつくる原点となり、それは「歴史の中の小道」となった。)

 

  • ## 002 高橋清七について-1(声は共同の記憶に)

 1880(明治十三)年には営業が確認されている*1群馬県の書店「煥乎堂」の2代目の社長が、この「お父さん」にあたる。高橋清七(1884-1942)は、一生を書店の経営者として生きたが、同時に在野のスピノザ研究者という顔をもつ人物であった。スピノザの『神学政治論』初版と『ラテン語遺稿集』原典版をはじめ、英語、フランス語、ロシア語、ギリシャ語、ラテン語、漢籍を含む蔵書は、清七の死後に、群馬大学と群馬県立図書館に寄贈された*2。特にスピノザの原著と研究書については、「初期の校訂版や古典的研究文献を多く含む堂々たるstudy libraryであり、古書趣味の遺物」*3という代物ではなく、「東洋でおそらく最初のスピノザ研究のための文献蒐集」*4とされる。

 

*1 『四書集注』(明治十三年版)では、「売弘書店」として「高崎市**町 煥乎堂」が確認できる。これが『日本の書店 百年』での煥乎堂の創業年のソースとなっていると推測できる。

*2 群馬大学附属図書館『スピノザ文庫目録』1963. 群馬県立図書館『高橋文庫目録』1982.

*3 高木久夫「国内蔵スピノザ原典版資料」『スピノザーナ』スピノザ協会年報, 4, 2003, pp.178-9

*4 高木久夫「小伝・高橋清七」『スピノザーナ』スピノザ協会年報, 4, 2003, p.194

 

 「自分に自信がなかった…自分を尊重しなかった」とつぶやく人物に、スピノザという300年前の異邦人の思考・思想は、どのような機会で触れ、彼の人生に根を張っていったのだろう?

 

 「何も書いて置かなかった」高橋清七が、何を考えている人物であったかは、今日、その話を聞いた人がのこしたわずかな文章だけが手がかりである。それは、彼の家族、親戚たちが書き、親戚同士で作った回覧雑誌によってである。声は空に消える。それは「信じたくないほどさびしい」ことだ。しかしそれを日記に留めて、その日記が「回覧」というかたちで読まれるとき、声は共同の記憶となったのだ。それは、その「さびしさ」ゆえに、「さびしさ」に抗して打ち立てられた記念碑のようなものだ。この記念碑の意味を、改めて(@アーレントの製作概念・世界概念から)後ほど考えてみよう。

 

  • ## 003 家族の関係

 記録された会話のやりとりを読んで、私が一番驚いたのは、交わされる内容の知識や専門用語の多さではなかった。高橋ゆうは、高橋清七の言葉から、ひとつひとつ考えさせられ、自分の思考の種にしていた。高橋清七は、ゆうやほかの娘に語りかける時間を楽しみにしていた。それは、戦前の厳格な家父長制家族とも、戦後の核家族――愛情で結びついていることになっているが、思考のための種になるような会話が生まれるとは考えづらい――にもない、何かユニークな家族の関係だった。

 

  • ## 004 ゾルゲ事件の記録

 高橋ゆうは、戦時下最大のスパイ事件とされたゾルゲ事件*1に関与した容疑者として検挙された人物として記録される人物である。彼女は、ゾルゲ事件のキーパーソン、中国問題の専門家として近衛文麿のブレーンでもあった尾崎秀実の「満鉄*2」における秘書であった。鈴木裕子は、戦前の抵抗運動における女性の足跡を探る著作のなかで、ゾルゲ事件の周辺にいた女性が、いったいいかなる思いをもった女性たちだったかを追っている。そうした女性のうち、未だ詳細が明らかではない人物のひとりとして、高橋ゆうが挙げられている*3。

*1

*2 小林英夫『満鉄調査部』

*3 鈴木裕子1990

 

  • ## 005 ゾルゲ事件の女たちにとっての『野褐』の空間

* * * * *

 『野褐』における「楽しさ」の空間(@別セクションで記述予定)

* * * * *

 

 「楽しさ」の空間という問題を考えるとき、在野のスピノザ研究者高橋清七の長女高橋ゆう(1911-48)と従姉妹の明峯美恵子(1911-45)というふたりの女性が、『野褐』の執筆者(書き手)であり、さらに、「世にも奇妙な歌合戦」の繰り広げられる壮行会の空間にも居合わせたことが記録されているということは、歴史的にも、また『野褐』に参加した当事者が、その場を言い表した「楽しさ」の意味を掘り下げて考えるうえでも、意義深い。

 高橋ゆうと明峯美恵子は、ゾルゲ事件(1941年)*1の際に「非情報機関員」(内務省1972, 199頁)、すなわち事情は知らないが事実上協力した人物として、検挙・投獄された人物である*2。ゾルゲ事件は戦時下における「スパイ事件」として世に知られ、その実態および評価すら今日定まっているとはいえないが、ゆうが東京女子大学を卒業し満鉄東京支社で尾崎秀実(1901-44)*3の秘書を務めたこと、美恵子もまた内閣府情報局のタイピストという重要な役職に就いていたということは少なくとも事実である。

 

*1 リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らを中心とする国際諜報グループの検挙事件。ゾルゲは、「ソ連赤軍第四本部」に所属し、日本の政治・経済・軍事情報を様々な人脈を駆使し入手し、情報の分析と時局の見通しを無線でソ連に通報していた。特に、日本がソ連に武力介入をするか否かの見極めが、最重要任務であったとされる。

 

*2 復刻版内務省警保局『社会運動の状況13 昭和十六年』には、以下の記載がある。

 高橋ゆうは「昭和六年三月東京女子大学高等学部卒業後…略…昭和十三年十一月尾崎秀実の支那研究室には入り、其の秘書となり昭和十五年四月以降満鉄東京支社調査室資料係事務員となる。」容疑事実は「女子大在学中より左翼運動に参加し後明峯[美恵子]等と研究会を持ち、…略…尾崎の共産主義理論に傾倒し尾崎に対し資料の整理提供等に従事す。」(*検挙の根拠法は治安維持法か?)

 明峯美恵子は「昭和六年十一月津田英学塾中退、昭和十三年七月駿河台女学院卒業後雑誌社等を経て、昭和十六年内閣情報局タイピストとなり現在に及ぶ。」容疑事実は「津田英学塾在学時代左翼運動に参加し…略…昭和十五年七月より前記諜報機関員九津見房子を通して宮城[与徳]を識るに到り」宮城の依頼で近衛内閣の対米交渉内容の情報提供を約束するも未遂、とある(内務省1972: 205-206頁)。

 特高(特別高等警察)をはじめとする当局の取り調べが、容疑事実のでっち上げを行うことは十分ありえることであるが、ゆうと美恵子の経歴-満鉄調査室と内閣情報局タイピスト-については、事実背景としてそれなりに信頼できるものと考える。では、ゾルゲ事件との関わりにおいて実際の事実はどうであったか?内務省資料に記載される九津見房子は戦後に聞き書きの回想録を出しており、その中でわずかに高橋ゆうの記述がある(牧瀬1975:106-137頁)。明峯美恵子については、北海道新聞の記者による事件回想録(平澤1987)がある。だが、これらの著作でも、二人はごくわずかに登場するのみで、経歴と関わりの具体的なものはわからない。

 

*3 尾崎秀実は社会主義者・評論家。東京に生まれ、中学卒業までを台北で育つ。東京朝日新聞に務めたのち、上海特派員になり、そこで魯迅らと知り合い、日本への最初の紹介・翻訳者になる。その過程で、アグネス・スメドレー、リヒャルト・ゾルゲと知り合い、以降ゾルゲの諜報活動に協力する。38年朝日を退社して、満鉄の東亜経済調査局嘱託、第1次近衛内閣の嘱託となる。41年スパイ容疑で検挙され、44年11月7日ゾルゲとともに死刑が執行された。

 

(*ゾルゲ事件・*尾崎秀実・*満鉄・・・@極めて位置付けが困難な登場人物と時代背景である)

 

 『野褐』のいくつもの側面のひとつは、知性、しかも時代の流れに対していくぶんは距離をとり、自分の考えを持つ、つまりは「批判的知性」をもつ女性たちが育まれたバックグラウンド(文化的背景)である。

 まず興味深いのは、ゆうと美恵子が1年以上の投獄期間を経た釈放後*4に、『野褐』の集まりに【参加できた】という点である。ゾルゲ事件で検挙された者の家族がどのような風評に遭うか。たとえば、尾崎秀実の弟で、後にゾルゲ事件の検証と研究を行う尾崎秀樹は、事件が世に知られた頃の様子を、「「売国奴」とか「スパイ」といわれることのやりきれない哀しみが、私を身動きできない形にしばりつけた。どこへいっても私は「スパイの弟」であり、それ以外の眼ではみられなかった。毎日のように兄や父を指弾する脅迫状がまいこみ、表の塀には誰がいつ書くのか、「非国民」「売国奴」などの落書が消したあとから書きつけられた」*5と書いている。高橋通乃の回想によると、ゆうは投獄中に父親の清七を亡くし、釈放後は煥乎堂書店の奥の部屋で暮らしていた。高橋家の場合は、書店ということもありここまでひどい経験はなかったが、共産主義運動に加わった者への市井の視線は決して暖かなものではなかったという*6。では、『野褐』や「いとこ会」は、ゆうと美恵子にとってどのような場所であったのか。

 

*4 (@内務省資料に記載があるか?)

*5 尾崎秀樹『ゾルゲ事件 尾崎秀実の理想と挫折』中公新書、1963年、p.197

*6 高橋通乃氏への聞き取り(2009年?)より

 

  先の(@記述が前後する可能性あり)「匿名記者」氏による「壮行会」のレポートに、彼女たちが描かれている箇所がある。それによると、壮行会前日、「いとこ会」の役員改選で誰を幹事長に「押し付ける」かという「円卓会議」なるものを行なっているときのことだ(@いとこ会のリアルな空気感を、参加した当事者が言語化したものについては、「何が讃えられているのか−『野褐』解読」参照)。

 

ゆう子さん「そーォ。私がサクラになるのぉ。やだー。私がサクラになつて嘉夫さんを幹事長にするのぉ。そーォ サクラ・・・はづかしいなー」

やう子さん「かまわないよ、嘉兄(ヨシニイ)、おこるかしら。おもしろいけど あたしサクラやだョ」

(高橋通乃「会員消息」『野褐第三号』1943年)

 

 「ゆう子さん」がゆうのことで、「やう子さん」は妹(高橋清七の三女)、「嘉兄」はゆうのもう一人の妹(清七の次女)の夫である明峯嘉夫。明峯美恵子の兄にあたる人物となる。彼は共同通信社の前身である「同盟通信社」の記者であり、1945年9月2日の横浜沖のミズーリ号での降伏調印式を取材報道した3名のなかのひとりである*7。

 

*7 西山武典「ミズーリ号取材 同盟最後の仕事だった」『取材ノート』日本記者クラブ、1995年8月

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/34763

 

 翌日の壮行会は、やはり結核を患っていて「まだ本当によくなつてゐないのに美恵ちゃんが来て下さつた」(同)とある。「猛獣の咆哮」のような歌声が響く壮行会を、ふたりはどんな思いで過ごしたかはわからない。しかし、ゆうについては匿名記者はこう記している。「それから改めて余興と合唱に入る。けれど記者はここでペンを置かう。これから後の騒行ぶりを筆写するイネルギーなんかとても無いんだから。ただ、おゆう坊の声帯がこの後一週間しても変調をきたしてゐた事から推察すれば、それが如何に猛烈苛酷をきわめたか読者諸兄姉(みなさん)にもよーくお解りでせう。」(同)「一週間しても変調をきた」すほど声をからしたゆうにとって、この場所が、少なくとも安心していられる空間であったことは間違いない。

 

 ここで強調したいのは、『野褐』のつながりが、ゆうや美恵子と「思想」を共有していた雑誌なり集まりというわけではないという点である。詩人高橋元吉は、戦意高揚詩以外のなにものでもない「大東亜戦争詩篇」を『野褐』に書き*8、また別の男性は出征の覚悟と「大東亜建設・敵国撃滅」を歌った愛国詩を描いた。戦意高揚詩を掲げる詩人と「コミュニスト」が同じ雑誌に寄稿していて、空間を共にして歌っているという事実をどうみるか。もし、「思想」を、愛国思想であるとかコミュニズム思想といった意味で使うなら、ゆうや美恵子が、自分の「思想」を雑誌に自由に書き表していたとはいえない。その点、『野褐』は「思想」を自由に発信できた雑誌とはいえず、戦時下抵抗研究であれば、ここに抵抗を認めることは難しいだろう。だからこそ、いとこ会の関係性は、イデオロギーとしての「思想」の一貫性で集っていたわけではなく、それらが雑居しながら「集つてたあいもないことを喋舌つてゐる楽しさ」があった。この「楽しさ」と「おしゃべり」のなかで、目にはみえないどのような思想が生まれていたのか。それをどのような言葉で、私たちは言い表せることができるのか。

(@キーとなる概念
〈場所〉〈世界〉〈活動〉(H. アーレント)
〈ハイブリッド〉(I.M.ヤング)
〈プラネタリウム〉(山口昌男)

〈Politics of small things 〉(J. Goldferb・・・ 採用しない可能性大)
〈闇への抵抗〉(H. アーレント))。

 

*8 「皇軍の将兵裸身に刀(とう)を背負ひ/銃を把つて流れを渡る/英人怖れて死の流れと呼べる流れを/英人よ驚倒せよ/我等驚かざるなり/我等死によつて鍛えられたり/我等まことの生の唯死の上にのみ築かるるを知れり・・・」(『野褐創刊号』1942年、p.)「大東亜戦争詩篇」にはこうした詩句が連ねられる。元吉は、大日本文学報告会の中心的存在で戦意高揚詩を発表し続けた高村光太郎や尾崎喜八とは深いつながりがあったが、かれらとは違って、倉田百三主宰の『生活者』が休刊になってから、表立って詩を発表してこなかった。それだけに、親族の回覧雑誌という媒体でこうした詩を多く寄せたことは、内面深くに戦争を賛美する心性があったと考えられる。大正期以降の「生の哲学」の哲学者、白樺派に代表される文学者が、深く戦争賛美につながってゆく傾向は、表面的ではない分析が必要だ。『野褐』に現れる親族たちが寄せた文章には、この課題に真正面から材料を投げかけるテクストがいくつかある。

 

 ゆうと美恵子がどのような人生を送ったかについては、今までのゾルゲ事件に関する著作や研究ではほとんど明らかにされていなかった。女性史研究者の鈴木裕子氏によると「ゾルゲ事件については、ゾルゲや尾崎秀実を中心に戦後、その名誉回復も含めて、関係者らの努力により次第に明らかにされていっているが、ゾルゲ事件に参加した女性たちのことは、ほとんど知られていないようである。」*9その点で、ゾルゲ事件の当事者である九津見房子の聞き書き『九津見房子の暦』が重要だとしている。だが、九津見の回想のなかで、ゆうと美恵子の人生について触れられるのは「明峯[美恵子]さん、ゆう子さんの二人は一年くらいも警察におかれて、からだを悪くされ、明峯さんは出てから亡くなりました。ゆう子さんもこのあと亡くなったそうです」*10という部分だけである。再び鈴木氏に戻ると「尾崎の秘書で、検挙され、四十三年まで在獄し、敗戦の翌年、四十六年八月に死去した高橋ゆう子、高橋のいとこで、同居していて、同じく検挙され、出獄後まもなく死去したという明峰美恵子らをふくめ、ゾルゲ事件の女たちの全容は明らかにされていない。これからの重要な課題の一つといえよう。」*11

 彼女たちは、確かに一年あまりの獄中生活で心身ともにひどく傷つき、それが死期を早めただろう。だが、「出獄後まもなく死去した」のではなかった。彼女たちは、『野褐』に寄稿し、そして「壮行会」にも現れ、声を枯らしての合唱に加わり、あるいは居合わせた。そして、ゆうについて言えば、次節(@構成中)でみるように、ひとりの女性の人生にとって重要な存在になっていったのである。それは個人史であると同時に、もうひとつの目に見えない思想の芽生えを描いたものとなるだろう。

(@〈プラネタリウム〉)

(@岩倉博『ある哲学者の軌跡―古在由重と仲間たち』(花伝社、2012年)に、高橋ゆうに言及する古在関連の新しい資料がある)

 

*9 鈴木裕子1990年、p.307

*10 牧瀬菊枝編『九津見房子の暦 : 明治社会主義からゾルゲ事件へ』思想の科学社、1975年、p.115

*11 鈴木裕子前掲書、p.307

 

  • ## 006 みちのは語る:『野褐』の空間と「トランセンデンタル」

「『ぼくの叔父さん』読んだっけ?中沢新一の。

 うんと面白いんだけど、あのうちもぜんぶそういう会があったんだ、いとこじゃないけどね。

 それで、あれ読むとさ、うんと思い出す。そういうふうな会があったのね。いとこたちの会が。」*1

 

*1 高橋通乃氏聞き書き(2008年)より

 

 神話的世界にせよ、チベット仏教にせよ、非近代・前近代的な世界観から、わたしたちの近代社会を超えていく価値を取り出すという点で中沢新一の仕事は一貫としているが、その仕事は、南方熊楠研究に代表されるように、日本の歴史においてもなされた。そうした具体的な日本の歴史への関心は、彼の叔父である歴史学者の網野善彦との対話によって深まっていっただろうことが、中沢の著作『ぼくの叔父さん網野善彦』(集英社新書、2004年)からよくわかる。2008年に通乃さんが私に話した『ぼくの叔父さん』は、この著作だ。

 中沢は、叔父の網野善彦との間柄をこう書く。「精神の自由なつながりの中から、重要な価値の伝達されることがしばしばおこる。[出会い以来]四十数年ものあいだ、私たちのあいだにはなによりも自由で、いっさいの強制がない、友愛のこもった関係が持続することになった。」*2それは、中沢、網野だけでなく、中沢の父で石の民俗学者であった中沢厚、叔父である鉄の歴史の研究者中沢護人をまきこんで、同時代の学生運動から中世の悪党に至るまでを夜中じゅう議論したり、歌をうたいながら近所の森を散策する仲間であった*3。そして、この仲間の関係こそが、網野史学の根本の視点である、アジールの思想や非農業民の歴史への関心を深く練っていった場所でもあった。「網野さんはよく私[中沢氏]に『あの論争でぼくの思考はずいぶん鍛えられたんだよ。すばらしい学校だったなあ。あんなふうに純粋に自分の思想をぶつけ合う人々に、ぼくははじめて出会ったんだよ』と、懐かしそうに語るのであった。」*4

 

*2 中沢新一『ぼくの叔父さん網野善彦』集英社新書、2004年、p.14

*3 同書、pp.24-25

*4 同書、p.43

 

 「夜中じゅう議論し」、その話題は「同時代の学生運動」という出来事から「中世」にわたり、「歌をうたいながら近所の森を散策する」というその時間の質。「自由で、いっさいの強制がない、友愛のこもった関係」で「純粋に自分の思想をぶつけ合う…すばらしい学校」。中沢の文章を読んで、高橋通乃が「あれ読むとさ、うんと思い出す。そういうふうな会があった…いとこたちの会が」と言ったのは、あまりに自然な想起だった。なるほど、もし「思想」という言葉の意味を、高橋ゆうや明峯美恵子が抱くコミュニズムのイデオロギーや、まさしく同時代に進行している戦争への抵抗の言葉ととるならば、『野褐』のなかでそうしたイデオロギーや言葉が正面から語られることはなかった。それに関わることがあるとすれば(@別所に書くように)、『野褐』のいとこ会の大合唱会の集まりの静まった、別の時間で、静かに高橋ゆうが高橋通乃に、シモーヌ・ヴェイユのことを語って聞かせた時に起こった。だが、そうした別の時間を含み持つことも含め、『野褐』にあらわれるめくるめくジャンルや話題の言葉群からは、狭義の意味ではなく「純粋に自分の思想をぶつけあう」形を見てとることができる。

 

 しかし、それをどのように言うかが難しい。

 

 中沢は、父と叔父、叔母たちのこのつながりを「トランセンデンタルに憑かれた人々」*5と表現している。「「トランセンデンタル Transcendental」という言葉は…「経験に先んじている」とか「経験が触れることのできない」というような意味合いで…人間の心の中に、現実の世界での五感からの影響や経験の及ぼす働きから完全に自由な領域が開かれており、この自由な領域こそが、人間の本質をつくっているのだという思考法のもとになっているのがこの言葉」*6だという。『野褐』に現れる雑多ともいえる多様なテーマ群を貫くひとつの言葉があるとしたら、それは「トランセンデンタル」なものへの憧れや情熱といえるかもしれない。そして各自ならではの「トランセンデンタル」への純粋な思いを共有する媒体が、あの手書き原稿を和綴じした、いまや古ぼけた冊子なのかもしれない。河原で拾った石が夢の中では透明な石に変わったり、ムカデに悩まされる自宅の庭を「百蟲園」と名付けて調査フィールドにしたり、地球ではなくどこか別の宇宙で生まれて生きることを夢想したり、シューマンの暗さを秘めた室内楽の魅力を綴ったり、大国主の神話を読み替えていとこ会のなかに芽生えつつあるある種の愛を語らせたり、そして、、、大東亜戦争を牽引する国の運命と自分自身の運命を重ねようと苦闘する自伝的小説も、、、「トランセンデンタル」への情熱とともに、「人間の思考の中に現実原則から自由な領域を活動」*7させるための試みであったといえないか。

*5 中沢前掲書, p.33

*6 同書, p.33

*7 同書, p.34

 

 父・母・叔父といった人たちが結んだつながりを、中沢新一は、「精神の自由なつながりの中から」「自由で、いっさいの強制がない、友愛のこもった関係」がうまれ、「自分の思想をぶつけ合う人々」との対話のなかで「思考」が「鍛えられ」る「すばらしい学校」と表現した。これらの言葉は、回覧雑誌『野褐』をつくりあげた人々のつながりを、かれらがつくった空間が何であったかを記述するうえでも、重なるものがあるはずだ。『僕の叔父さん』を読んで、通乃は「そういうふうな会があった…いとこたちの会が」と想起した。「同質」のものを感じたからなのだ。この同質のものを、「トランセンデンタル」への情熱と、「人間の思考の中に現実原則から自由な領域を活動」させるための試みと置いてみよう。今書いている原稿は、この言葉と、丸山眞男の「内に深く秘められた価値」、ハンナ・アーレントの『精神の生活』をつないでいき、(@そして何が見えてくるのか・・・)

 

 

 晩年の−このような言葉がふさわしいものかどうか−通乃さんは、目が見えづらくなって、本を読むのに難儀をしていた。ばか本と彼女が呼んでいた小説以外に、読んでいた本が、時折私が訪れていた、彼女がひとりで住まう家の食卓の上に無造作に置かれていた。覚えているのが、中沢新一の『ぼくの叔父さん』、折口信夫の『古代研究』の古めかしい版、新しい文庫版の『釈迢空全歌集』(角川ソフィア文庫、2016年)、そして、シオドーラ・クローバーの『イシ: 北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫、2003年)だった。

 イシは、とても他人には思えない、イシは自分自身だと言っていた。

 

  •  [007] 高橋清七について-2(娘たちとの交流)

 親族たち(いとこ会)による手書きの回覧雑誌『野褐』は、戦中から戦後にかけて9冊編まれた。その中で、1冊だけ、手書きの原稿用紙の和綴じではなく、活字で印刷された号がある。『野褐 高橋清七追悼号』(煥乎堂、1943年)だ。*表紙の写真 『野褐』を編むきっかけとなった高橋清七の思い出を親族が寄稿した文章、清七自身の短い未完の断片的文章、清七から家族への手紙、そして娘のゆうによって書き留められた「父の言葉」「独文日記」から成る。

 

 高橋ゆうは、清七の三人の娘の長女で、清七ともっとも長く接した。『追悼号』に、「描けない肖像」という非常に短い文を寄せている。「描けない肖像」というのは、自分の父親のことだ。なぜ「描けない」のか。それは、父の死の打撃があまりに深く、「個人的な追懐」を交えずに「客観的に父を描こう」としても、「中途半端な、真実から遠いものになって…生き生きとした父らしさは一向浮かび上がってこなかった」*1という。娘なのだから、「個人的な追懐」こそが自然な思いである。なのに、高橋ゆうは、それを超えて父を「客観的に」描きたいと思った。父はどんな存在だったのか。

*1『野褐 高橋清七追悼号』1943年、p.5

 

「父は、私の青年時代に誰よりも大きい影響を与へた人であつた。自我と人生への眼醒めの時ともいふべきこの一時期の私に根底的な影響を及ぼした父の思想と精神について、私はいつか自分の考へを纏めて記しておきたいと思つてゐた…父のこの独特的な人間としての魅力も、私がもつと突つ込んで分析もし、表現もしたいと欲してゐたものの一つであつた。しかしこれは皆、父の生前のことであつた。今わたしの夢や想像に現はれてくる父は、ただ懐かしい肉親としての父ばかりである。ただ追いすがつて心のかぎりを愬へたい父である。」*2

*2 同書、p.5

 

 懐かしい父、肉親としての父。「ただ追いすがつて心のかぎりを愬へたい」父。肉親への愛情とも愛惜ともいえる思いと、同時に、それと結びついて「根底的な影響を及ぼした」「独特的な人間としての魅力」を、その「思想と精神について」「突っ込んで分析もし、表現もしたいと欲して」いる。「思想」も「精神」も、ここでは生硬な概念語ではなく、「生き生きとした父らしさ」と強く結びついて思い描かれている言葉だ。

 

 もう一つ、高橋ゆうが「個人的な追懐」を交えずに父を描こうとした理由があった。「描けない肖像」という小文の冒頭を、ゆうはこう書き始めている。

 

「父の死とその前後について触れることなしに、父の追憶を語らうとしたら、私には偽はりになってしまふだらう。なぜなら私の追憶の中でそれこそ最大の出来事なのだし、父の死の打撃は今もその時と変らぬ新しさで私の内に癒えぬ傷口をのこしてゐるのだから。」*3

*3 同書、p.5

 

 「父の死」は、1942年。高橋ゆうは、「ゾルゲ事件」の「非情報機関員」として投獄されていた。ゆうは、一時的に許可されて、葬式に出席していた*4。「父の死とその前後」とは、そうした出来事をさしていると推測される。この文の直後に「だが私の場合それは書きにくいことでもあつたし、又ひとに示したくないことでもあつた」とある。ぼやかされた表現だ。「父の死の打撃」が「癒えぬ傷口」であり、そのことを「書きにくい」「ひとに示したくない」と書いているとも十分取れる文章だが、やはりゾルゲ事件という事件に関わったことで父の最晩年に一緒に居られなかったこと、そしてこの事件の性質からして当然「書きにくい」「示したくない」ということのほうが、むしろ、事情を知った者としては読み取れる。もちろん、あけすけにゾルゲ事件やなにかのイデオロギーの表明を、高橋ゆうは『野褐』では記していない。だが、「書きにくいこと」があり「ひとに示したくないこと」がある、とは記している。それは、この『野褐』という雑誌の場に対する、ある種の安心の表明といえる。

*4 出典 平澤本か、確認