何が讃えられているのかー『野褐』解読

 『野褐』創刊号における明峯俊夫氏のテクストは、きわめて多面的である。軽妙洒脱な文章があたかも変奏曲のように繰り広げられ、最後に、シリアスな「真実の言」という節が置かれている。

 『野褐』同人である俊夫氏は、周りから「とっさん」と呼ばれていた。とっさんは、このテクストを通じて、『野褐』同人たるいとこ会を讃えている。が、それをとおして、彼はいったい何を賞賛していたのか。何がここでは讃えられているのか、ゆったり、とっさんのテクストに付き合いながら、解読してみたい。

 

 俊夫氏の文章は、以下の組曲のごとき構成をとっている。掲載は『野褐』創刊号(1942年)、俊夫氏自身の手書きによる原稿用紙を和綴したものである。順にみていこう。

 

「高橋一族遺伝調査実施について」

「ご挨拶」

「随筆」

 一、名前(A)

 二、名前(B)

 三、不在会長の弁

 四、会長告示

 五、真実の言(讃)

 

  • 「高橋一族遺伝調査実施について」

「先日前橋へ行った際に、高橋元吉顧問より、本会の事業の一つとして高橋一族の遺伝調査をしたらどうかというお話がありました。」

「「したらどうか」(という言葉ではあったが)同顧問は既にすることを決めているのです。だから相談ではなくて申渡しなのです。僕には意見をのべる余地を与えない程手強い弾圧なのです」(『野褐』創刊号、p.34)

 

 萩原朔太郎や白樺派との交流でも知られる詩人高橋元吉(1893-1965)が、いとこ会のなかで見せる親しい姿である。それを「手強い弾圧」と受ける「とっさん」の語り口の軽妙も面目躍如である。それにしても、なぜ「一族の遺伝調査」など言い出すのか。どうも俊夫氏は遺伝学を専攻しているようなのだ。そこを遊んでの元吉氏の言だが、元吉氏にとっても「いとこ会」の繋がりである「一族」が、(われながら)なにかとても興味深い集団に映ったのではとおもわれる。この案に俊夫氏は異存はないのだが、

 

「然しそのあとがいけないのです。同顧問はその調査の担当者として、僕を否応なしに任命して了ひました。これは、僕が遺伝学を齧つている人間であるから、最も適任者であると云ふ同顧問の速断的結論によるのでせうが、この点では、同顧問の識見には残念ながら讃辞を捧ぐわけにはゆきません。何故ならば、この様な難事業に当るには、僕の様な物臭太郎は最も不適当な人間だからです…」(同、p.35)

 

などと言いつつも・・・

 

「けれども実際問題として顧問の申出を退けることはとりも直さず本会の存立をして危殆に頻せしむることで…僕は断乎意を決して、この難事業の担当者たることを承諾しました。その心事は誠に悲愴なるものがあります…」(同、pp.35-6)

 

 嫌がっているのか、喜んでいるのか・・・「とっさん」節である。しかし、いったん「断乎意を決して…難事業の担当者たるを承諾」したからには、「会員諸賢」にこの案を認めてもらうために、俊夫氏は「会長の権限」なるものをふりかざし出す。俊夫氏がいとこ会、『野褐』同人の「会長」となった経緯は「三、不在会長の弁」で語られる。

 

「声をおごそかにして、本会役員名簿及び会則を見るべしと叫びます。」

 

 役員名簿や会則があったのか?あるいは俊夫氏の勝手な言い回しなのか?後者のほうがありそうである。

 

「不肖、明峯俊夫は会務を【総理(傍点)】する会長様ですぞ。とまァ、一寸気の弱い連中をおどかしてをいて。とにかく、此の遺伝調査を本会の事業の一つにすることを皆様に賛成して戴きたいのです。」(p.36)

 

 「担当者及びそのベターハーフの二人切りでやれる筈」ない難事業の助太刀として、「明峰英夫正会員」を「遺伝学、育種学の権威」と若干茶化しながら、「明峯茂夫正会員」を「ホヤホヤの医学者」、「高橋健人正会員」を「統計数学者」、そして「明峯正夫顧問*1」を「正真正銘我が国遺伝学界の元老」(p.37)と紹介している。

 

*1 明峯正夫については、『20世紀日本人名事典』に下記の項目がある。

 明治〜昭和期の作物育種学者 北海道帝国大学名誉教授。

 生年明治9年1月12日(1876年)没年昭和23(1948)年4月3日

 出生地愛知県名古屋市

 学歴〔年〕札幌農学校(現・北大農学部)〔明治32年〕卒

 学位〔年〕農学博士〔大正7年〕

 経歴愛媛県立農業学校、熊本県立農業学校の教諭を勤め、明治40年東北帝大農科大学(現・北海道大学)助教授、大正7年北海道帝大農学部教授となった。9年から2年間、米国、英国、ドイツに留学。昭和11年から北大農学部附属農場長を兼務、15年定年退官、名誉教授となった。種子の発芽生理、イネの遺伝育種などの研究で業績をあげた。著書に「農業種子学」「作物育種学」がある。

(20世紀日本人名事典 web版で確認)

 「とっさん」こと明峯俊夫氏の父親であることが、次々節の「名前 (A)」からわかる。

 

 果たしてどんな「調査」を行うのやら・・・「近い中に僕から皆様に色々の質問要綱を記した書類をお送りしますから、それに正直に答へを記入して…」(38)というのだが・・・

 

  • 「御挨拶」

  北海道旅行の際に会員の厚意を忝(かたじけの)うしたことへの御礼である。「全頁広告」とのはしがきあり。

 

  • 「随筆」

 一、名前(A)

 

 「「俊」と云ふ字は千人に勝る人の形容詞ださうである」から始まり、自分の名前の字の自画自賛と見せて、親愛なる家族への愛情へと移行する。とっさん節の面目躍如。

 

「「俊」と云ふ字は千人に勝る人の形容詞ださうである。「名は体をあらはす」と云ふ金科玉条がある所から、大いに気をよくして威張つてゐた所が、弟の数が増えてきて「英夫」と云ふのが出来た。「英」は万人にすぐれた人の形容詞ださうなので、そのことが判つて以来、余り威張れなくなつてしまつた。」(42)

「子供の時から、チョコチョコしてゐたので、色々な筆名を作つてはよろこんでゐた。只今の名は西塔魯人(又は西塔路二)。これは細胞学を英語でサイトロジー(cytology)と云ふ所から細胞学者を気取つてつけたお恥かしいもの。魯人の魯の字は魯鈍の魯の字だから、まァよかろうと云ふことになる」(42-3)

「坊主が生れた時、正継と云ふ名をつけた所、悪友共が、俊継でなくてよかつたとぬかし上がつた(*父である「俊夫」ではなく、祖父の「正夫」の「正」の字を継いだことを言っている)親父よりはお祖父さんに似たほうがよいと云ふのは万人の認むる所ならば是非もない」(43)。

 

二、名前(B)

 

 名前バナシも興に乗ったか、ここからは、娘、姪、そして『野褐』の(若い)親族全員へととっさん節が吹き渡る。その中には、私たちの歴史的視点からも重要な、ふたりの女性の名前が含まれる

 

「美恵子は子供の時、自分のことを「アンタ」と呼称していた。他人に「アンタ」と云はれるのを自分の名前と心得てしまつたらしい。」(43)

 

 他人に「アンタ」と言われて、それを自分の名前だと思って自分を「アンタ」と呼ぶ美恵子は、俊夫の娘の明峰美恵子、そして「ゾルゲ事件」に関わったとされ検挙された明峰美恵子である。この時、1942年、ゾルゲ事件はすでに世に知られていた

 

「「これアンタのだよ」なんて云ひながら自分が取つてしまふなんて、ややこしい争議の原因になる可能性が多分にあるが、昭憲皇太后様も御幼時に自分を「アンタ」とお呼びになつておられたと云ふことが、美恵子女史の自慢の種である。ただし、内心は自慢にはしてゐないと見えて、ことことを他人の前でバラすと、大いにあはてふためいて否定する。」(43-4)

 

 明峰美恵子という人物の貴重なエピソードであると同時に、このように親密に父がそれを書き残していることの貴重さを思う。

 

 続いて登場するのが・・・

 

「トンボ、まァボ、たァボはまだよいとして、ノコと云ふのは如何なるものか。通乃子がノコならば、佐知子はチコ、やう子はウコになつてしまふ。」(44)

 

 軽く触れられるだけだが、わが祖母高橋通乃の登場である。トンボ、まァボ、たァボは不詳。佐知子は、高橋元吉の娘。やう子は元吉の兄高橋清七の三女である。「しかしノコと云ふのは仲々可愛くてよろしい」(44)ほとんどやぶれかぶれの名前談義である。

 

 さらにその後登場するのが・・・

 

「実にどうかと思ふのは、おゆうちやんである。おゆうならそれで風情がある。ゆうちやんならばあたり前である。自分で欲ばつたわけではあるまいが、欲張り屋さんだと云ふ印象を人に与へる。その証拠に佐知子はおサチちやんなど誰も言はない。おサチと云ふ呼名は実によき哉。風情ありユーモアあり。但し、おあつと呼んで大いに叱られた経験を有する僕は、誰でも「お」さへつければ風情が出るなだとは云はない」(45)

 

 「おゆうちやん」は、高橋ゆう。高橋清七の長女にして、尾崎秀実の満鉄秘書として働き、ゾルゲ事件で検挙されたもう一人の『野褐』同人の女性である。とっさんこと明峰俊夫の文章では、誉めているのかけなしているのか一読わからないが、彼は「おゆうちゃん」にけちをつけているのではなく、風情ある「お」も、愛称の「ちゃん」も両方兼ね備えて皆から呼ばれている高橋ゆうを、茶化しながらも愛情こめて描き出しているのだ。佐知子は、先述のとおり、高橋元吉の娘。「おあつ」も高橋元吉の娘の篤子(佐知子とは母親が異なる)であり、私にとっては祖父の姉にあたる。

 

 この「ぐだぐだ」とした名前バナシの最後は、彼自身のあだ名に触れて終わる。

 

「トッさんなる呼び方は他に類例がない。トッツァンと呼ばれないだけ、ましである(妄言多謝)」(45)

 

 まこと、とっさん節らしく、自分のあだ名で締めて終わる。

 

  • 三、不在会長の弁

  ここで、とっさんがこの『野褐』同人の「会長」となった経緯が語られる。

 

「おれ見てェな遠方の孤立してゐる人間を会長にするなんてとんでもねェ話だ。しかも総会の席上、「会務を総理」出来ねェ正当な理由を陳弁して固辞してゐるのを、衆愚の力を以て押しつけるなんてェのは、まるで暴徒だ…会長だから会費を免除するとか、特に俸給をくれるてェなら話は判るが。思ふに、遠くに離れてゐて物の役に立たねェ俺を会長にまつり上げておいて、会長の居ねェ間にその権限を横取りにしやうなんて陰謀をたくらんだ奴が居やがるんだらう。懲罰委員だなんて僭称してゐる奴がまづ怪しい…こうなったら破れかぶれだ。せめて雑誌の上では会長の威力を振まはしてやれテェもんだ。」(46-47)

 

 どうやら、周りから押し付けられて会長にまつり上げられたようだ。「会費の免除」も「俸給」も特にない、会の雑務だけを遠方の自分に押し付けて、権限だけ横取りしようなんてたくらんでいる奴がいる・・・「破れかぶれ」と言って、「雑誌の上」で「会長の威力」を振り回すと宣言しはじめる。そうして勿体つけて以下の「告示」なる文を書きつける。

 

  • 四、会長告示

 

「近来、本会員中、懲罰委員などと僭称し、他の会員の言語動作にみだりに難癖をつけ以て私腹を肥さんとする輩ある由なるも、懲罰委員なるものの存在は会長之を認めず。よって一般会員は安んじて日常の起居動作を行ふべし…」(47)

 

 せめて誌面上だけでは威張るんだ、というユーモア。「会長の威力」をもって、懲罰委員なるものの存在之を認めずと宣言し、その直後「真実の言」という節が登場する。

 

  • 五、真実の言

 これは、文字通りの「真実の言」、本音というか、『野褐』の一参加者にとって、この場がどういう場であったかを包み隠さず書いているセクションである。

 題名の「真実の言」は、もともと「讃」とあったのを二重線で消して「真実の言」と修正されている。とっさんは、「真実の言」をもって讃ずるために、この五番目のテキストを書いたのだ。ここで讃めたたえられているのは、文字通りはいとこ会、「我々従兄弟同志(*ママである、同士にして同志であることが伺える)の間柄」なのだが、それをとおして真に讃じられているものものは、何であるか。これこそが我々の問いである。

 

「この五月以来、我々従兄弟同志の間柄は何と云ふ素晴らしい変貌をとげたのだろう」

 とっさんは、この間の消息を証言している。それは以前の惰性的な続きではなく、何か「素晴らしい変貌」だったのである。それはどのような変貌だったのか。

 

「それまではお互いに碌に存在さへも知らなかつた連中が、まるでおむつの間から一緒に育つた様な親しさになつてしまつた。こんなことは赤の他人同士には全くあり得ないことだ。血の連なりのもつ不思議な力だ。これを生物学で説明せよなんて、とんでもない話だ。生物学では人間の愛情なんて分析出来るものか。」(野褐1, p.48)

 

 「おむつの間から一緒に育ったような親しさ」として、それはまずは急速に互いを知ることと、「親しさ」、そして「愛情」として表現される。その具体の風景が、次に描かれる。

 

「集ると云へば、何よりもすつとばしてわくわくして飛んで来る。そして朝の二時までも三時までも、わいわい言つてさわぐ。こんな楽しさは、外にはないんだ。集って、たあいもないことを喋つてゐる時の皆の顔を見るがよい。こんなうれしさうな顔をする時が外にあるだらうか。」

 

 すこし、とっさんの筆あとを眺めてみよう。

「五月以来、我々一人一人が、生きて行く上に大きな力を得たんだ。お互いに力を尽くし合つて行かう。ああ、何と云ふ、素晴らしさだ。」

 

 そして、この後、「亡くなった伯父さん」こと、高橋清七とこの「いとこ会」の関係性が語られる。

 

「伯父さんのなくなつたことは、それは勿論大きな不幸だ。しかし、その不幸の中から、こんな大きな幸福が生まれ出たのならば、伯父さんだつて、きつとよろこんでくれるに違いない。」

 

 不幸の中から、大きな幸福が生まれ出た・・・その「幸福」の中身は、すでに書かれている。死という不幸が、どのように幸福へと変化したのか、その鍵となるのは、どうも死者の位置付けのようにおもわれる。そのキーワード、「想起」という言葉が語られる。

 

「我々は今、伯父さんのことを想起してみやう。それから清癡会が出来たあの晩の気持ちをもう一度味わひ直してみやう。清癡会は偶然に出来たものではない、それは出来るべくして必然的にできたことが判るだらう。これは、伯父さんの持つ不思議さとさへ云へる位、偉大な人間性の産物なのだ。

 正直に言つて、生きて居られた時の伯父さんは僕にとつて怖かつた。しかし、その中にひそめられてゐる肉親に対する限りない愛情はひしひしと感じられた。今になつて、僕はその愛情にむせぶばかりにとり囲まれてゐる。皆だつてさうにちがひない。

 しかしそれは伯父さんばかりでない。伯父さんの兄弟姉妹は皆さうなんだ。僕は不幸にして、お文伯母さんの直接の記憶はない。しかし、お邦伯母さん(※通乃の母)でも、元吉叔父さんでも、それから僕の母(※かつ)も皆溢れるばかりの愛情の所有者だつた。お文伯母さんもその様な方であつたことは、間接には幾度も伺つてゐる。

 今、これらの五人の方々の皆生きてをられたら、清癡会の現状をどのくらいのたのもしさをもつてながめてくれるだらう。そんなことを思ふと、僕は胸が一杯になつて痛んでさへ来る。

 しかし、これでいいんだ。亡くなつた方々の持つ愛情が、今となつて再現したのだ。」

 

 この最後のとっさんの言葉からわかることがある。それは「清癡会」は、いとこ会は、亡くなった親族の愛情が、「今」再現するような場だったのだ。そのキーワードのひとつが「想起」である。死者と生者が、親しい記憶の想起とともに、交流するという性格がある。

 

「我々は亡き父や母を愛すると同じ気持ちで、お互い同志(ママ)を愛し合へるんだ。理屈ではない、血の勝利だ。偉大なる人間性に満ちあふれてゐる血液を共有する我々の勝利だ。」

 

 「血の共同体」という言葉にすれば、ただちにナチズムを想起する。それは、同質性を追求し、異質性を排除する。だが、みていくように、『野褐』は、実際は、ある次元での同質性と、別の次元での異質性を兼ね備えた場所だった。こうした位置付けは、今後の作業で、焦らず、少しずつ言語化していくこととしたい。この「真実の言」ないしは「讃」において、賞賛されているのが、最後は「血の勝利」であるにしても、我々がつかみとろうとしているものは、別の表現が適切かもしれないのだ