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邂逅(ラッカの物語)

21 SEP 2020

 「座りなさい、そしてゆっくり話しなさい。それはとても大事な話なのだから・・・」

 時に、「鍵」と「鍵穴」のように、ふたりの人間が邂逅する時が在る。『灰羽連盟』のラッカと話師(わし)もそうだ。話師は、実は«聴く者»であった(私はむかし、この鍵穴、«聴く者»のことを「受容体」と名付けて論じたことがある。その論文では、「年を重ねた者」には、新しい世代の話を聴き取りながら、自らの経験を重ねるように語るという、「受容する語り部」の役割があると述べた。その時は、実際の「高齢者」はそんな者ではなく、むしろのべつ幕なしに自分の主張を撒き散らす者も多いと、当の「高齢者」から多く言われた。だが、私がその時光を当てたかったのは、もっと密かな話し合いであり、それは現実に起こるものだと思う)。

 ラッカは話しはじめる。だが、彼女が話せるのは、彼女が古井戸のなかで骸となった烏から、気づきを得たからだ。古井戸の底の烏の死骸、死の中の死にもみえる物に、彼女は、かつて彼女の力になりたい、助けたいと願った存在、(いや、もっと素朴に)彼女のことを認識した存在があったことを知る。作中、ラッカは、かつて自分が誰にも必要とされていない、いてはいけない存在だと思い詰めて(明言はされていないが)自死した経験を持つ人であることが暗示される。しかし、少なくともたった一人、彼女のことを認識し、理解して、あるいは力になりたいと願った存在がいたこと、そしてそれが鳥(烏)の姿で、この世界の外(作中では「壁」の外)から現れて、自分自身の姿をもって、あなたの力になりたいという存在はいるのだよというメッセージを運んできたことに、ラッカは気づいたのだ。古井戸の底で見つけた烏の死骸に、ラッカは土を盛り、小さな墓標を立てる。死の中の死にもみえたもの、それはラッカに「鍵」を運んだ。

ここには、トビトの物語と同じ鍵がある。大事なメッセージは、その人が世界の外から、あるいは盲目の闇の中から現れて来てくれる、目に見えるということそのものなのだ、と。



話師「鳥は、忘れてしまったものを運んでくるといわれる。鳥の骸をみたとき、おまえは怖れを感じたか。」

ラッカ「いえ。」

話師「ならば、その骸は、おまえが知るべきことを知った証。使命を果たしたことを誇りに思って、おまえに骸を見せたのだ。悲しむことはない。」



 この会話をきっかけに、ラッカは話し出す。
 この会話には「確信」がある。鳥(烏)の想いを語る話師の確信。ここには、ラッカと鳥の邂逅(鳥は骸であったが、鳥は骸となった自分自身をラッカに見せた)がラッカにとっての「鍵」を手に入れる経験となったことへの確信、鳥の想いを自分は理解できるという確信があった。そして、おそらくこれは半分程度の確信だろうが(だれも、自分自身の行為を確信しきれない)、自分が聴き、話すことが、ラッカにとって「鍵穴」になるであろうという確信。

それを話師ができるのは、実は話師がラッカでもあり、鳥でもあるからではないだろうか?かれらは、確かに違う存在であるが、たとえば「前世」、たとえば「別の世界線」では、話師はラッカであったり、鳥であったかもしれないのだ。これはこじ付けに見えるかもしれない。だが、邂逅とは、「鍵」と「鍵穴」が出会うような経験には、これだけの深い背景があると考えてもよいではないか?ラッカに訪れた心の病は、正真正銘の危機でもあった。しかし、危機とは、こうした邂逅を準備する舞台かもしれないのだ。

 

さらにいえば、ラッカがグリの街に来た理由のひとつが、彼女にとっては話師との邂逅のためであり、また話師にとってはラッカとの邂逅が大きな意味を持つからだったと考えられる。話師が問いかける謎々。「罪を知る者に罪はない。では問う、汝は罪びとなるや?」この問いに、話師自身がずっと苦しんできたのではないだろうか?この問いの文字通りの意味することは、自分の罪を知ることができた人に、すでに罪はないということである。つまり、自分自身の罪を知っていると考えるならば、その人は罪びとではなくなる。だが、この問い、結局は「罪とは何か?」の答えなくしては、「罪を知る」ことができない。結局堂々巡りになってしまう。罪とは何なのか?

 その鍵は、ハンナ・アーレントが『人間の条件』という著作のどこかで書いていた、「罪の原義」の示唆がにぎっている。彼女は書いている。「罪」という言葉のギリシア語の語源は、「道から外れていること・外れている状態」をいう。「罪」というと、人を殺してしまった、あるいは自ら命を絶ってしまった、といった「行為」、しかも「取り戻せない行為」をふつうはイメージする。そういった行為をしたことは、取り消すことができず、許されないので、「罰(処罰)」が与えられると考える。「罪と罰」は一体という考え方だ。しかし、もともとの語源では、「罪」という言葉は、なにかの行為のことではなく、「道から外れている状態」に過ぎない。「道」がわかりづらければ、「本質」でも良い。その人が、その人自身の本質や道からズレてしまっている状態、それを「ツミ」と言ったのだ。あれ?そんな、自分の本質や道からズレてしまった状態なんて、人生よく起こることではないか?そうなのだ、ギリシア語の語源のツミ(今、元のギリシア語を調べ切れていないが)は、そうしたありふれた状況をツミと呼んだ。本質や道からズレてしまったのであれば、それに気づき、そこから本質に再び戻ることができる。そうすると、「ツミ」の状態は無くなる。ここで重要なことは、語源における「ツミ」は、それに気付き、そこから再び自分じしんのまっとうな道や本質に戻れば、「ツミ」では無くなるということだ。「罰」は存在しない。ここでは話が逸れるので触れないが、キリスト教の「原罪」とも関係ない。

 

「罪を知る者に罪はない」という謎々を解く鍵は、おそらく「罪とは、罰されるべき行為ではなく、自分らしさ、自分の本質からズレてしまった、自分の本質を見失ってしまった状態なのだ」と知ることなのだ。ここから重要な帰結が導かれる。たとえ自ら命を絶ったとしても、その行為が(取り消せないような)罪なのではない、自分の本質から外れてしまったことがツミだったのだ、そしてこちらのツミは、そうだったことを理解・認識することでほどけていくものなのだ。こう悟る時、その人は罪に囚われるのをやめ、ツミを知ることで、ツミからほどけていくだろう。

 

話師は、ラッカに、答えは自分でたどり着くものと言っていた。彼は、しかし、ラッカとの邂逅で、おそらく自分自身の答えを一歩進めることができたのだろう。邂逅とは、もう一人の自分、かつての自分あるいは未来の自分かもしれない存在と、謎をほどき、答えを進めることなのかもしれない。いずれにせよ、この物語もまた、人間にとっての大きなテーマを含み込む普遍的な物語だ。

"Rakka", Mai Takahashi-Ishihara, 2020. http://maimai-ishi.com
"Rakka", Mai Takahashi-Ishihara, 2020. http://maimai-ishi.com

 高橋(石原)麻伊の描いたラッカと鳥。作中では、ラッカは外の世界から落下してくる夢を見て、この世界にやってくる(この夢にちなんで、ラッカという名前が付けられる)。落下の途中に鳥が助けようと現れる。